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「栄えある歴史300年連綿尽きぬ興譲の」
歴史がいっぱい詰まっています。 |
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- 「感麟殿」扁額
1697年(元禄10年)、4代藩主綱憲が学館とともに
建立した聖堂(孔子廟)に掲げられたもの。
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「興譲館」扁額
1776年(安永5年)、9代藩主鷹山の時に再興され、「興譲
館」と命名された学館(藩校)に掲げられたもの |
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学則
「興譲館」の命名者細井平洲が、学ぶ者の心得として示
したもの。古典の「管子」弟子職からとられた。 |
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上杉鷹山書簡
1784年(天明4年)、天候の回復を願って参籠・断食した
時の模様を世子治広に書き送ったもの。 |
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細井平洲書簡
1797年(寛政9年)、米沢の医者飯田忠林に宛てたもの。
奥州・羽州を歴遊中の熊本藩士の世話を依頼している。 |
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宮島詠士の書「花明らかにして柳暗し」
宮島詠士は明治から昭和にかけての米沢の書家。清
冽な書風で孤高の境地を示した異才である。詩は米沢
藩士山田蠖堂の七言絶句。 |
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伊藤忠太の書「尺璧寶にあらず」
伊藤忠太は本校1872年(明治5年)卒の建築家。
伝統を生かした日本建築学の権威であり、築地西本願
寺、京都平安神宮、上杉神社社殿等を設計する。
文化勲章受賞者。 |
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大熊信行の書「母の手」
大熊信行は本校1912年(明治45年)卒の経済学博士、評
論家、歌人。「母の手」は大熊の長歌である。 |
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浜田広介の書「大巓の吾妻を見れば」
浜田広介は本校1914年(大正3年)卒の童話作家。
「泣いた赤おに」、「椋鳥の夢」などの作品で多くの子ど
もたちを魅了してきた。
この色紙の詩は浜田が1956年(昭和31年)に書いた
本校の校歌である。
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我妻榮の自筆原稿
我妻榮は本校1914年(大正3年)卒の民法学の権威。
東京大学法学部長。文化勲章受章者。本校自頼奨学
財団の設立者。
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皆川睦雄の雄姿
本校1954年(昭和29年)卒。南海ホークス(現ソフトバン
クホークス)のエース。日本プロ野球最後の30勝投手と
いわれた。
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